◎ 徳倉城について |
城山と言っても既に四百年を経ており、周囲は宅地化され、西側では畑が頂きに登って当時のままではないが、それでも空掘りと思われる跡は歴然とあり、更に本丸と二の丸跡かと推定される場所には、薄暗い木立の中に五輪塔だけが仔細ありげに並んでいる。土地の人の語る所によると、戦前のある時期、この城下の部落で凶事(遠藤栄作翁の話)が続いたことがあり、占ってもらったところ、 「城山に墓石が散乱している、これを供養すること」 と言われたことから、それまで気にもかけず放置されていた墓石を其処此処から集めて、現在の位置に五輪に組み、部落で春秋に祀ってきたものであった。この墓は誰のものなのか、今以てわかっていない。
徳倉城についての文書は甚だ少ないが、ここが城跡であることはほぼ間違いない。『増訂豆州志稿』には、「大岩山、昆ノ山、小菅山、三山倶ニ三国峰下ニ在リテ佐野、徳倉、幸原、三村ニ誇ル、又徳倉村ニ城山アリ古城跡存ス」とあり、又「徳倉村城山ト云処ニ二重隍存ス、城山ノ上平地凡三百歩土人ノ説ニハ笠原新六ノ弟某據之ト(駿河ニモ徳倉城墟アリ笠原新六城主タリ與之不同)」の記載があるが、これと同様のことは『小田原編録』や『三島市誌』などにも見られる。徳倉城が今まで多くの人々に知られることもなく過ぎてきたのは、次の理由によるものと考えられる。
一、城の規模が小さい、つまり砦であった。
二、駿河に戸(徳とも書く)倉城(清水町徳倉)があって至近距離の上、当時伊豆と駿河とは混同され使用されていた。このことは『小田原編録』に「戸倉城(清水町)此城ハ駿河国中ナレドモ始終小田原分国ナリシユヘ、豆州ノ内ノゴトク記セシ書多シ」と記載されていることからもうかがわれる。
三、城を中心とした合戦がなく、戦史に記録されることがなかった。
城があれば「兵どもの夢のあと」であるから、この城を囲って多くの人の哀歓と生死があったはずである。
他にも記するが、歴史的に不明の点が数多いので、これからもこれらの点を考究していくことにしたい。